| 「その一発」二の一 | 水上 京 |
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多津与は、父親清之助の昼餉のために、茶の間にて、かいがいしく立ち働いていた。 その日の多津与は、なぜかふだんより陽気で、動きにはりがあったという。 たぶんに才次とのことが,、その密かな因(もと)となっていたのだろう。 多津与は、清之助のまえに膳を据えたあと、なにをおもったのか、ひょぃっと中座敷にはいっていった。 そこへ、だった。 海風をいれるために開け放っていた表戸口から、大砲の直撃弾に砕け散った大釜の破片がの一つが、飛びこんできたのである。 もう半歩か一歩、遅いか早いか、だった。 また、着弾音に立ちすくむことがなかったら、破片は、多津与の腿にふれることがなく、壁板をぶち抜いただけで、件(こと)は、終わっていたにちがいない。 形相をかえた才次が、浜に怪我人がでたらいつも医者代わりにひっぱり出される五助爺を背負い、浜沿いの一本道を走っていた。 その後ろと脇には、数人の村人たちがあわてふためきながら、五助爺が振り落とされないようにと手を添えてついている。 ここの漁師たちの多くは、明治初年に、青山嘉左え門たちが山形の青塚より入村し、よく結束して、小さな漁村を千石場所としてつくりあげていった者たちである。 現存する戸籍調(しらべ)によると、当時、祝津村には、出稼ぎ漁民をくわえて百二十二人とあるが、船の数は、大小あわせて二百十五艘とある。 つまり、たんにこの数を照らしあわせただけでも、村には、戸籍調にあるいじょうの者がいたことが推察できうる。 その数のほとんどの者たちが多津与の家のまえにあつまってきた。 多津与が、父親の斉藤清之助と母親のうめに手をひかれ、蝦夷へ渡ってきたのは、十歳のときである。 そのころから顔だちがふっくらとし、のちの小町ぶりをみせていたし、おきゃんな性格が、村じゅうの者に可愛がられるものだった。 そのため、この事件は、村そのものの騒ぎとなった。 明治九年、七月三十日、午前十一時頃のできごとである。 五助爺を背負った才次が着いたときには、多津与はすでに寝具のうえに移されていた。 意識はしっかりしている。 清之助とうめもいくらか落ちつきをみせ、枕もとで娘の手を握りしめていた。 多津与は、才次をみとめ、かすかに笑った。 傷口をみた五助爺は唸きを発したきり動かなくなってしまった。 だが、すぐに気を取りなおし、血止めの処置にとりかかったとき、外から声があがった。 「あの船だ!」 「大砲を撃ったのは、あの船だ!」 「ちげえねえ!」 多津与の家のまえでどよめきがひろがった。 才次が飛びだすと同時に、誰かがいった。 「玄武丸だ!」 「まちがえねえ、あれは玄武丸じゃあ!」 「なんてことしやがる!」 村の者がみつめるその沖合には、黒く大きな西洋型縦帆船の姿があった。 その船は、なにごともなかったかのように悠然と白波を立てて、小樽浜をめざしている。まもなく入港である。 玄武丸をみつめ噛みしめる才次の唇からつうと血が流れおちていった。 この玄武丸は、明治政府が米国から当時の金額で十八万円で購入した、数本のマストをもつスクーネル船である。 昨年、明治八年より、東京から函館を経由して小樽へ至る航路を、月一回の定期便としてとっていた。 このときの玄武丸は、七月二十五日に、東京・品川を出航している。 その二日後の真夜中には、函館に寄港し、二十九日の正午に函館をはなれ、そのあと二十時間ばかり要して、祝津村の沖にさしかかったところだった。 大砲の弾は、岬むこうの赤岩沖から撃たれたらしい。 だが、なぜ―――。 この玄武丸には、北海道開拓使長官の黒田清隆と札幌農学校(のちの北海道大学)へ招聘されたウィリアム・クラークが乗船していた。 あの、よく知られる 「Boy's be ambitious!」 の言葉を残したクラークである。 この事件が、この両名から端を発したしたことは、のちに知ることだった。 村長(むらおさ)の命で、この事件を知らせる者が、小樽へ走った。 玄武丸に事故を知らせるためにである。また、船になら医者が乗っていると判断したわけである。 多津与は、両腿とも破片によって抉(えぐ)られており、五助爺の手当をもってしても、出血をおさえることができなかった。それほど酷い傷だった。 小樽は、約一里くらいだろうか。約四キロ。 しかし道が悪いうえに、小さな岬の背をいくつか越えなければならない。実際には、二里をこえる道のりだった。 やがて変事を知った玄武丸からは、数名の役人と船医が馳せつけてきた。 船医の名は、菊地晩節といった。 その晩節は、多津与の傷口をみるなり、 「うっ―――」 と低くうめき、すっと場を離れ、枕もとの清之助を別間に呼びつけ、ひと言ふた言、囁いた。 清之助は、見る間に、蒼ざめていった。そして、しきりに頭をふりはじめた。 シャツの腕をまくりはじめた晩節は、 「一刻を争いますぞ」 と何かをためらう清之助を叱咤するようにいった。 清之助は、それに応えなかった。呆然立ちつくしている。 かまわず晩節は、まわりの女房たちに、湯を沸かし、できるだけ清潔な布と焼酎をかきあつめるように、指図した。 清之助は、まだ立ちつくし、宙をみつめたままである。 「おやじどの!」 晩節は、清之助に声をかけた。その言葉には怒気がふくまれている。 その言葉に動かされるように、清之助は、はっと我にかえった。 意を決するように、一つうなずき、多津与の枕もとへいき、力なく座った。 多津与は、父親を下からながめたが、その瞳には、怯えた色ひろがっている。 清之助は、出ない生唾を何度ものみこんだ。 そして言った。 「お多津―――。足は、両方とも切り落とさねばなんねえそうだ。こらえてくれ―――」 家じゅうに、異様な、驚きと緊張がはしった。 才次は度肝を抜かれ、母親のうめは、枕もとで気を失ってしまった。 多津与の細い悲鳴が、凍りついた空気を引き裂いた。 と、清之助がはじかれたように、晩節にすがりついていった。 「おねげえでございます。どうか、足をのこして助けてやってくだせえ」 仕度をしていた晩節は清之助の勢いに倒れそうになったが、こらえて言った。 「むりだ。とても無理だ」 「二本がだめなら、一本だけでも、おねげえしやすだ!」 「おやじどの!命がかっている。はやく肝(はら)を決めなされ」 「いんや。西洋の医術なら、やれるはずだべえ!」 と、すっかり動転してしまった清之助は、晩節の胸ぐらをつかまえ、強くゆすった。 「お多津は、ちいせえころから痛てえことには、弱い娘だでえ。足を切るなんて、こらえられねえべ。堪忍してやってくだせえ」 隣家の主が背後から清之助に組みつき、晩節から引きはなした。 「とっつぁん、お多津坊をこわらがらせちゃなんねえ。とっつあんが、落ちつかねえで、どうするんだ」 清之助は隣家の主の腕を懸命に振り払おうとしていたが、その言葉に、愕然とうなだれてしまった。 晩節は、腹に力こめて言った。 「台所でやる。焼酎は、そこへあつめてくれ」 晩節の動きは、機敏だった。 矢継ぎばやに、まわりの者たちに指示をあたえ、一刻でも早く処置しようとした。 才次も動いた。 脱兎のごとく、家を飛び出し、近辺の家々から焼酎と新しい布を奪うようにかき集めはじめた。 頭の中は、真っ白だった。なにも考えられなかった。 だいじょうぶだ。―――だいじょうぶだ。 という言葉だけがまわっていた。 きっと、またあの白い足は、自分と絡み合うはずだ。 と必死に思いこみつづけた。 清之助は、多津与の枕もとからやや離れたところで、隣家の主の説得をじっと聞いている。 が、眼球がじっとしていない。不安定にゆれ動いている。迷いに、迷っているのだ。 目の中にいれても痛くないほどの娘のことである。 足か、命か。 どちらをとるべきか。 それは、すぐに判ることだが、清之助にすれば、切るときの激痛と、足を失ったこれからの生涯をおもうと、激しく惑乱してしまうのだった。 そして、一縷ののぞみ。 切らなくても―――。 さっきまで元気に歩いていたのだ。 冷静になろうとするのだが、まともな思考が音とたてて崩れてゆく。 このとき麻酔なるものがあったなら、清之助の迷いもすこしはちがったものになっていたにちがいない。 |
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