| 「その一発」七 | 水上 京 |
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その後、黒田は何事もなかったかのように開拓使長官としての役務をつづけ、新八や才次を追うことはなかった。あの酔態ぶりでは、何があったのか、誰に出会ったのかさえ、覚えていなかったのだろう。 しかしこのあとの黒田は、目をそむけたくなるほどの不運にとり憑かれていった。 まず、西郷隆盛を父とし大久保利通を兄とす、とみずから高言していた黒田は、明治十年の西南戦争で西郷を失い、その翌年明治十一年五月には、大久保を紀尾伊坂にて暗殺者によって失った。大して才覚があったわけでもない黒田は、この二人に従い維新という混乱に乗じて地位をなしてきたため、その政治的基盤を失うのも早かった。 しかも、大久保暗殺の二ケ月前に、黒田は、乱酔したあげく病妻を家中にて、斬殺している。 この日本の黒い霧のはしりともいえる一事にて黒田の数ある歴史的名声は霧散してしまった。病妻を斬殺したか否か、また何故かは、いまになっては黒田しか分からないことであるが、これまでの行動をみると推測はつくような気がする。 さらに、たたみかけるように不運は続く。翌年明治十二年の正月、黒田自慢の名建築物である札幌の北海道開拓使本庁である白亜館が炎上する。皮肉なことに、不在長官と揶揄(やゆ)されている黒田が、たまたま一度きりとなった北海道にての年越しのときにである。出火原因は分かっていない。不審火とも言われている。 このときの黒田は常軌を逸したあわてぶりでそれは目にあまるものであったと伝聞され、さらにその後の落胆ぶりは激しかったという。 つぎに、名だたる開拓使官有物払い下げ事件――――。 これは開拓使の所有する船舶・工場・農園・鉱山などを同じ鹿児島出身の政商五代友厚に極端に安くまた無利息で払いさげたもので、このことで世論から避難され窮地に立たれされる。 数年後、初代伊藤博文の内閣を後を継いで、黒田清隆内閣を成立させ、大日本帝国憲法を公布するが、条約改正問題で反対運動にみまわれ、閣僚揃って辞表を出すが、総理の黒田のみ辞表は受理されてしまった。 その前にも、伯爵から右大臣への声もあがったが、天皇が反対して頓挫したという。 新八は、黒田の不運を耳にするたびに、清之助の顔と多津与の名を思い出し、おのれの不覚に苦いものがこみあげてきたが、死したあとの清之助から鬼相が消えていたのがせめてもの慰めとなっていた。 清之助からあずかっていた助太刀料は、息を吹きかえした才次とともに清之助の遺体を荷車で祝津村に運んだとき多津与の母親うめに渡そうとしたが、件(こと)の顛末きいたうめは、臥せていたのもわすれ毅然と座りなおし、その金は新八が納めてくれなければ困る、と頑と言い張ったのだった。 さすがに清之助の女房だけあった。 新八は、その金で才次に、小樽で餅菓子屋をひらかせ、残りの金は、新選組の名誉回復のために板橋の近藤勇刑場跡に建てた碑の費用にまわしたとも言われている。 才次は、白亜館炎上のすぐあと小樽にある新八の家に新年の挨拶にきたのだが、そのとき才次の目の奥が輝いていたのを新八は見逃さなかった。だが、あえて新八は才次を問い糺さなかった。才次は、ひと言、 「先生、おいらもやっと気が晴れました」 そう言っただけだった。 永倉新八は、大正四年まで市井に生き、黒田清隆は政界にて浮き沈みしつつ、新八より先に明治三十三年に脳溢血で死している。 大学や警察署で剣術を伝え、小樽で暴れ者を老身ながら眼光一喝に追い散らした、などと粋な武勇伝を残した新八とはちがい、この間、黒田の酒乱は激しさを増し、政務上でも拳銃や刀を振りまわしたという。 それは、ときおり襲ってくる烈しい頭痛からくる暴挙であり、それをおさめるために酒をのみ、さらに乱酔して暴れまわったらしい。 それは、新八のこめかみへの一発からくるものだったのかもしれない。 |
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